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父と暮らせば(7)私の青年時代・総括②沖縄のガンジー

イラクに米軍が侵攻した時に「暴力の連鎖」に反発が強まった。
私は当時、千葉県市川市に住んでいましたが署名用紙を持って船橋駅前にたった一人で立ちました。それはいても立ってもいられないという気持ちに駆られての駅頭立ちでした。
「暴力の連鎖」への疑問。物事を暴力で解決できるだろうか。抑え込まれた方はそれで済むはずがない。因果応報、きりがなく続くのではないのか。たとえ正義と言われる大義だとしても暴力で最終解決、それで全てしこり無く解決、万々歳という事になるのだろうか。

ガンジーの非暴力は徹底していると理解している。
家族が暴漢に襲われそうになった時でも暴力で歯向かってはならないのか!という質問に対しても「身を投げ出す勇気の抵抗」という回答をガンジーはしている。そこには暴力は暴力を呼ぶだけで、表面的は静まったように見えても決して最終的解決にはならないという考えが貫かれていると思う。
全ての当事者が納得するのは平和的な話し合いによる合意だけだと言う考えのように思う。

ピースボート乗船中に沖縄のガンジーと言われる「阿波根昌鴻」さんを知りました。
徹底した非暴力、あくまでも話し合い。座り込みに立ちはだかる米兵にも「理解してもらい味方になってもらう」という姿勢だったと聞く。「ぬちどうたから=命は宝」と拠点の小屋の入り口に大書した。土地収用させない戦いに「負けることはあり得ない=収容者が諦めるまで戦いを続ける=自分たちは決して諦めない」という姿勢を知った時に私は目からうろこが落ちました。

私の青年時代に決定的に欠けていた事は「相手が諦めるまで続ければ必ず勝つ時がくる」という精神だったと気が付かされた。
もう一つ「話し合いで双方が納得することが最終的な解決=暴力では連鎖を呼ぶだけで解決にはなりえない」という事でした。
私はようやく青年時代の自分の沈黙を総括できる地平に辿り着いたのです。その地平から振り返り整理すれば良い。ようやく自分のしてきたことを言葉にして整理できるところまできた。

大した事でもない私の青年時代の事でさえ整理する視点を見つけるのにこれだけの時間がかかった。
ましてや私の父はどうだっただろうか。戦争の事は最後まで口を開かなかった。
「開かなかったのではない。開けなかったのだ。私は自分の戦争の意味を自分が戦場でしたことも整理して自分の心に落とす「地平」に辿り着けなかったのだ」対話する私の父はそう言っているようだ。「戦争の事は最後まで説明することはできなかった。お前にも家族にも話せる言葉は見つけられなかった」父はそう言っているようだ。
何と痛ましい。その思いのまま父は何も語らず、語れずあの世に行った。その事に息子は70歳になろうとする今まで気づこうとする想像力を持てなかった。一番身近にいた「戦争の本質」を知る父の心のひとかけらも理解しなかった「私のベトナム戦争反対」の何と空虚な事か。父の無口の意味を想像すらできなかった私の「社会への異議申し立て」など地に足がついていない「勝つに値する何物もない」空論でしかなかったのだ。沈黙して当然の蜃気楼のような議論だった。情けないがそう思う。

だが負け惜しみではあるがこれだけは言いたい。薄っぺらな青い議論や行動だったとしても「精一杯走ったあの青年時代」を経験したからこそ父と語り合える自分ができたのだ。私の青年時代を最大の愛情で抱きしめてやりたい。経験を後悔などしない。