2018年8月5日、朝日新聞の歌壇(短歌)欄に「まさに同感!」という短歌が掲載された。
選者・高野公彦
作者・畑山真理子
歌 ・戦争は無かったけれど災害が多くの命を奪った平成
7月10日のブログに「この国を守ると西日本豪雨災害」とする一文を掲載した。
安倍晋三首相は「この国を守る」と言いながら「西日本豪雨災害で200人を超える命を守れなかったではないか」。
その事をどう思っているのだろうか。安倍首相は次元が違うというかもしれない。しかし、命の重さという事からしたら違いはないと私は思う。
北朝鮮のミサイルには素早く反応したのに、この度の豪雨の際は被害が予想された前夜に側近達と宴会を開いていたことが明らかにされている。 豪雨災害には素早く対応する意思は無かったという証しのように見える。
安倍首相は北朝鮮の動向には極めて神経を働かすが、国民が大きな災害に会うかもしれない事態にはさほどの関心は無かったように映る。
「国を守る」と「国民を守る」が安倍首相ではイコールでは無いらしい。
「国=国民」であれば毎年必ず起こり、国民の命を奪う台風にしろ豪雨災害にしろ地震にしろ、そこへの備えが一番の政治課題でではないかと私は思う。少なくとも北朝鮮のミサイル攻撃の可能性より日本なら自然災害の可能性は毎年100%と比較にならない重さがあるのではないか。
この歌の作者の畑山さんの思いと私の思いは違うかもしれない。
平成の世に戦争(戦闘)での日本人の死者はいなかった。無条件に良い事だ。日本は戦場にならなかったし自衛隊員が戦闘で相手を殺すことも殺されることもなかった。それは幸せだ。
しかし、大きな災害が何度も起こり平成だけで何万人も命を落とした。
原因が何であろうが無くした命に変わりはない。本人も家族も友人も悔しさ、悲しさは言葉にできない。命の重さは原因によらない。同じなのだ。
畑山さんはそう言いたいのではないか。
「当事者の気持ちに添う心、そういう姿勢」を感ずるしみじみとした情感。畑山さんはそう言いたいのではないのか。
安倍首相への苛立ちが私をして深読みさせているのかもしれない。
だとしても、畑山さんの歌には「命の重さに違いはない」ということを為政者は理解して政治・政策に当たってきたのかという「抗議の意思」を私は感ずる。