先ず冒頭に、この番組を視聴した感想をこのHPの意見交流の場にたくさんお寄せいただきたい。
25日深夜放映されたが録画し翌26日以来4回視聴した。
私は放映したNHK、作成した椿プロダクションに最大限の賛辞を贈りたい。いかに深夜でマイナーなEテレだとしても戦争により神経を病んだ日本兵が存在した事。彼らとその家族にとっては戦争が1945年8月15日に終わったどころか、それ以降も、今もなお戦争神経症により治療入院している日本兵が現代の日本に存在しているという事を満天下に明らかにした事。私が知る限りNHKがこのテーマで番組を作ったことは知らないし、おそらくこれが最初だと思う。この事は歴史に明記されてしかるべき転換点を刻んだ言っても過言ではない。そう思う。
国立武蔵療養所の元ソーシャルワーカー古屋龍太さんは言う「戦争神経症の復員兵を収容する施設もない、対応する制度もない、人権の問題でもあるのに世論は知らない、関係すべき人たちも鈍感だ。この国(日本)だからこそ起きた問題だ」と。
この番組に登場する戦争神経症の研究者、医療従事者含めて私が番組視聴前に氏名を知っていたのは中村江里さんだけで後の人達は視聴して初めて知った。これだけの人達が(私からすれば先人が)いたのに世間には知られていなかった。それだけ重い課題だったという事なのだと思う。それだけ、ある種、国の在りよう、国の存在意義に近づいた、照らしている問題なのだと思う。
埼玉大名誉教授(元)清水寛さんは現在82才。私(黒井秋夫)は今日が70歳の誕生日なので12歳年長の清水さんの今もふつふつとたぎるような押し殺せない感情のほとばしりは強く私の心に響いた。40年以上も戦争障害兵士への聞き取り、カルテの研究をしてきたという。そして自身の父親が79才の最晩年に「ソ連が来るから逃げろーソ連が来るから逃げろー」と夜中に突然叫びだしたという。復員直後に馬糞を「パンだから食べろ」と言ったり、自分の名前を忘れていたという。PTSDの復員日本兵であったのだが、いったんは正常に見えたのに死の直前には意識はソ連国境の戦場の日本へに戻っていたわけだ。清水さんは精神障害者が終戦直前に徴用された事にも強い怒りを表明している。
番組に登場する兵役中に精神障害兵士となった人たちも戦争が無かったら、徴用されなかったら、平穏な日々の人生を送れた人たちなのだと清水さんは言う。登場する家族もまた兵士と共に苦しんだことが知らされる。それらすべては取り返しのつかない事柄なのだ。
戦後も1000人を越える精神障害兵士が入院したり治療を継続した。2018年の今もなお3人が入院、3人が治療を継続しているという。精神障害兵士として復員した佐川薫(仮名)さんの姉よしえさんは「弟は何をするために、何しに生まれて来たんだろう」と我が子につぶやいたと言う。そしてよしえさんの息子は顔をぼかした映像で話した。既に当事者の精神障害兵士の叔父もその姉である自分の母もこの世にはいなくなったけれども、顔を知られることに抵抗があったのだと思う。
日本兵の戦争神経症の存在はまさに隠されてきた。戦争中も以降も。今に到るまで。古屋龍太さんが言うように「この国(日本)だからこそ起きた」し、起きていることなのだと思う。
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」が発足した理由はますます明確になったように感ずる。
戦争神経症の兵士が存在したことを隠し、戦争を続けた日本。病院を作り存在を知っていたにもかかわらず「病床日誌」の焼却・証拠隠滅しようとしたこの国・日本。戦争の実態を国民には知られたくなかったこの国・日本。それは国民を、人間を大事に扱おうとする姿勢だろうか。大事なのは何だったのだろうか。国民なのか?戦争指導者たちなのか?軍隊なのか?天皇なのか?
「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」は宣言する。一番大事なのは一人一人の国民だ。一人一人の人間の命だ。かけがえのない一人一人の人生だ。この視点がこの国には今もなお欠けているように思う。
私たちはすでに声を上げた。しかし、戦後70年経っても「顔をぼかしてしか」テレビにでられない、心に抵抗感を持っている多くの精神障害兵士とその家族たちがいる。その人たちが、誰でもが堂々と声を上げられるように「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」は活動していくつもりだ。
清水寛さんは最後に言った「戦争の精神障害を未来の子供たちに体験させてはならない」。
全く同感だ。「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」は今だ吹けば飛ぶような弱小組織ではあるが、「この国(日本)」の風潮を、流れを少しでも変えていく橋頭保として存在する覚悟だ。
多くの皆さんのご支援を切にお願いしたい。