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「戦場体験を受け継ぐということ」遠藤美幸・高文研

 

「戦場体験」を受け継ぐということ

 

―ビルマルートの拉孟全滅戦の生存者を訪ね歩いてー

 

著者 遠藤美幸 高文研

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この本の感想を述べるのは難しい。簡単には書けない。

 

この本には遠藤美幸さんの生き方、それも器用とは言えないその時々の人生の選択が綴られる。

 

遠藤さんは二つの出来事で人生のベクトルの角度を変えた。

 

 

 

日航で会社寄りの労働組合から第一組合に労組を変えた。もう一つは「戦場体験」の元兵士と出会った。後の方がこの本の主要テーマであるが、二つの選択は遠藤さんの生き方、人となりを読者に伝える。一本の線で二つの選択も貫かれている。彼女は誠実に人と事柄に向き合い道を選ぶ。読者は遠藤さんの二つの選択に深く共感する。この本の感想を書くということは遠藤さんの生き方、人となりに物を言うようで書き終われないのだ。正直に言う。私には重すぎる。この文章も遠藤さんの真意に迫れていない物足りなさが残る。この文章も通過点と遠藤さんに許してもらいたい。私の一生をかけて書き上げたいと思う。それだけこの本の中身は深く重い。

 

 

 

 

 そして、読者の心をゆさぶるのは、本に登場する元兵士は“みんないい人”なのだ。その人たちが戦場では中国人を蔑視して「チャンコロ」と呼び、女性でも子どもでも構わず殺したのだ。食料も現地調達を強いられ中国の農民の作物を強奪した。なぜ「いい人」がそんな鬼のような事ができたのか。やったのか。

 

全編読むと拉孟の日本軍兵士たちは本当に良く戦ったことが分かる。彼らは中国軍と151の戦力で戦わされた。それでも3か月間持ちこたえた。驚異というしかない。戦争の常識からすれば称賛に値する。しかし、彼らの死は読者の腑に落ちない。納得できない。

 

負け戦を命じた人たちと玉砕し命を落とした兵士たちのその後の軌跡を見ると、勧善懲悪とはならず、いわば勧悪懲善が結末であった。作戦参謀は生き延びた。辻政信参謀などは戦後も逃げ回った。戦争の最高責任者・昭和天皇はもちろん生き延びた。「理不尽・余りの不公平・無責任で卑怯・勝手な祀り上げ」というしかない結末ではないか。

 

 

 

『「97日夕、松山陣地が敵に占領され、横股陣地に降りて来た時、眞鍋大尉らは、ウワーと歓声をあげながら敵の中に斬り込んでいった。つづいて三苫曹長等も濠から飛び出して、『チャンコロ出て来い』と叫びながら飛び出していった」こうして拉孟守備隊は力尽きて全滅した』

 

涙なしには読めない。余りに痛ましい最後ではないか。これが人としての死に方(生き方)なのか。無残でならない。彼らは死ぬために飛び出していった。そんなことがなぜできたのか?

 

元兵士は語る。「戦争というものは、人間の感情を麻痺、鈍化させ、死という恐怖心も人間性も、何もかもなくさせてしまうものである。無感覚になった将兵には、笑いも怒ることもなかった。あるのは食うことと寝ること、そして敵を刺し殺すことだけである。戦友が戦死しても、段々と何の感情もなくなってゆく気がした」

 

 

 

その時兵士たちはもはや人間ではなかった。人間という心を失くして武器を持つ単なる生き物になっていた。そういう動物に仕立てられていたと言っても良い。

 

人間であれば、そもそも人など殺せない。人間の命を大事にするなら戦争などできない。人間を生き物ではなく駒として使えてこそ戦争を遂行できる。戦争を命じた者は「自分の為に兵士たちが存在する」のであり周囲を守る兵も、民も全て自分の防波堤であり捨て石に過ぎない。そう割り切ってこそ戦争(殺し合い)ができる。戦争する、人を殺すとは人間らしい生き方を捨てさせてこそ可能なのだと思う。戦争には意義も大義も人間らしい情愛もありはしないのだ。人殺しに大義名分などあってたまる物か。私はそう思う。

 

 

 

10人を越える拉孟戦にかかわった「戦場体験者」が登場する。彼らすべてを最終的に繋いだのは遠藤美幸さんだった。「戦場体験者=いわば神」は「戦場体験を受け継ぐ人=いわば預言者」を本能的に探していたように思う。幾多の偶然と幾多の壁を越えて双方は「戦場体験を託す人=神」と「戦場体験を受け継ぐ人=預言者」に一本の絆で結ばれていく。読み進めるにつれ、パズルの空白が埋まるように、遠藤美幸さんという預言者を通じて読者は自分も又「戦場体験を受け継ぐ人」の一員になっていることに気づくのだ。

 

 

 

私の父、黒井慶次朗は19446~9月拉孟戦の頃、長江中流の漢口(武漢)にいた。19443月にソ連・中国国境のアムール川河畔から転戦を命じられ南へ南へと行軍した。大陸打通作戦の一環と思われる。長江の漢口に1944626日に到達している。この時、拉孟は激戦の最中だった。拉孟陣地はインドシナ半島の南から、父親たちは長江に沿い東方向から重慶の中華民国政府と対峙していたことになる。この本を読み拉孟戦を知ったが、初めて、より立体的に父の戦場を知ることができた。そうだったのかと理解した。 拉孟「玉砕」のその後、父は1945426日には更に重慶に近づき、長江河畔の宣昌にいた。そこで終戦を迎え武装解除されて1年間の捕虜となった。私の父親もまた中国の人たちを「チャンコロ」と呼んだだろう。中国の人たちの収穫物を強奪しただろう。この本に出てくる日本軍兵士と同様に村を焼き、邪魔とみれば平気で中国の民を殺したに違いない。そして私の父親は精神を病みPTSDの兵士として帰還したのだ。

 

 

 

拉孟の元兵士たちも私の父も今はもうこの世の人ではない。あの世にいる。

 

彼らは(神は)私たちに何を受け継いでほしいと思っているだろうか。

 

 

 

遠藤さんが雑誌「世界12月号・戦友会狂騒曲」の末尾に書いている言葉こそそれだと思う。『90歳を越えた老兵たちは最期のその時まで「戦争だけは絶対するな」と叫び続けた。彼らの声は死んだ兵士の声であり、日本兵が殺めたあまたの人々の声でもあるのだ。「戦場体験」を元兵士から聞けた最後の世代として、これらの「声なきこえ」も掬い上げ、元日本兵らの非戦の思いを受け継いでいきたい。』と。

 

 

 

私・黒井秋夫は思う。『為政者や権力を持つ人たちの指示で戦争をしてはならない。人を殺してはならない。戦争では何一つ解決しない。物事は話し合いでしか解決できない。回り道でも、いつかは仲良くできる、肩を組み合う、心を割って話し合い、共に生きる世界、社会をめざして話し合いを続けるしか人間らしい道はないのだ』と。私はその事を「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の「おしゃべりカフェ」を続けながら語り継ぎたいと思う。

 

「語られない経験はくり返す。語り継ぐことで未来の命を守りたい」。

 

 

 

2019.11.27 黒井秋夫。