父の従軍時代のアルバムを整理していたら「履歴申立書」という表題の茶色に変色した従軍記録が出てきた。
おそらく1953年に軍人恩給制度が復活した時に申請の為に書いたものと思われる。
多くの行に赤字で訂正や加筆されているので役所側が聞き取り申請書に書き入れた物で、その後に清書されたものが正式な申請書として提出されたのだろう。
1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖の鉄道爆破で満州事変が起こる。
私の父は満州事変の翌年1932年に南満州鉄道独立守備隊として初めて従軍した。20才だった。
父が残した
私の知る復員後の父は一つの仕事が続かなかった。主には土木工事現場を渡り歩く出稼ぎが仕事だったと思う。失業保険の給付対象になる期間が来ると仕事を辞め給付期間が終わると
私は父ときちんと向き合って話したという事がついに一度もなかったように思う。打ち解けて心が通いあうという経験もほとんどしたことがない。「戦争の事は話題にしてはならないという父が放つバリアー」が
父は戦争の話はしなかったと書いてきた。しかし「戦争の事は自分には聞くな」というそれとないバリアーを父は張っていたような気がする。つまりある種のタブーなのだと家族には思わせていたのではないか、
明治以来の日本が繰り広げたアジア諸国への戦争について終戦から70年を経た今も事あるごとに各国から謝罪要求がある。特に中国、韓国(北朝鮮)は明治以前は先進文化を日本にもたらした、
父と語れば(9)で父の無念を晴らしたいと書いた。しかし、日本軍兵士としての父親は紛れもなく侵略軍の兵士であったと言う事は当然踏まえた上の事でなくてはならない。
亡き父と会話すると言う事は父が遭遇したであろう事象を想像の世界で追体験することを抜きには成立しない。父が戦場で体験した事。感じた事。捕虜の期間、復員後の日本での戦後体験、どんな出来事に出会ったのか、感じたのか、どう考えたのか、
「マストも船全部が見えなくなった」揚子江の深さ大きさを数少ない戦場の話しとして父は私に話した。
イラクに米軍が侵攻した時に「暴力の連鎖」に反発が強まった。
私は当時、千葉県市川市に住んでいましたが署名用紙を持って船橋駅前にたった一人で立ちました。それはいても立ってもいられないという気持ちに駆られての駅頭立ちでした。